こんにちは。
今日は日本人なら誰もが知っている、高杉晋作について書いてみたいと思います。
高杉晋作は、江戸時代後期長州藩に生まれて、その人生のほとんどを倒幕に捧げました。
そして亡くなったのが27歳。
驚くべきはその功績、いくつもありますがここでは大きな出来事を3つほどご紹介して、最後に辞世の句についてお話しします。

1.功山寺決起
まず第一に思い浮かぶのが、歴史的な功山寺挙兵。挙兵とか決起とか言われていますが、はっきり言ってクーデターです。
元治元年、長州征伐に本腰を入れてきた幕府に対し、それにおもねり唯々諾々と幕府のいうことを聞こうとする俗論派と幕府に争いその後(のち)、攘夷を断交すべきと主張する高杉らの正義派の対立は深まります。
俗論派は幕府への謝罪のため正義派三家老の福原元僴、益田親施、国司親相を切腹させますが、それを知らない奇兵隊の諸隊幹部らはしきりに建白書の採用を請うのみでした。
建白書の内容は、幽閉中の三家老を許し、藩政を攘夷に戻し、俗論派を抑えて正義派を登用し、武備恭順を目指そうというものでしたが、優位に立っている俗論派は歯牙にもかけません。
そして、三家老が切腹したという情報が山口にもたらされると、奇兵隊諸隊幹部は激怒し、長府藩主毛利元周を頼り長府へ赴くことを決め、その旨を文書にして藩政府に提出します。
しかし、結局、諸隊幹部は説得され、一人高杉のみが信念を変えず俗論派と戦うことを主張するに至ります。
高杉は俗論派政府をまったく信用しておらず、 高杉は諸隊の消極姿勢を見て憤激し、度々決起を提案したが諸隊幹部は拒否し続けます。
高杉の挙兵計画を聞いた諸隊幹部は全員一致して反対し、高杉を止めるため説得を試みますが、高杉はあくまで消極的な諸隊幹部の態度に怒り、自らと一緒に立ち上がるよう逆に演説を行います。
有名な、「一里を行けば一里の忠を尽くし、二里を行けば二里の義を尽くす」です。
「お前らにはもう頼まん、その代わり馬を一頭貸してくれ。萩に行って藩主に物申して、聞いてもらえなければ腹を切る」
12月15日深夜、高杉晋作らは功山寺にて挙兵しますが、挙兵と言っても実に高杉たった一人です。
挙兵前に三条実美ら五卿への決起の挨拶に行った際、「これよりは長州男児の腕前お目に懸け申すべく」と言ったのですが、はっきり言ってこの時点で勝算はゼロ、狂人です。
しかし、ここがこの男のすごいところです。はっきり言って死ぬ気でした。実際、高杉は白石正一郎の末弟である大庭伝七に遺書を託しています。
翌日、約束の地、功山寺に集結したのは伊藤俊輔(のちの伊藤博文)」率いる力士隊と石川小五郎率いる遊撃隊と、義侠心から参加した侠客のわずか84人だけでした。
しかし、挙兵後、高杉の作戦が奏功します。軍資金や武器弾薬、金蔵を襲い、そして軍艦を乗っ取り、結果挙兵は成功します。
恐るべき行動力、この時高杉晋作、26歳です。信じられません。
2.イギリスに「魔王」のような対応
1863年に長州藩は外国船への砲撃し、損害を負わせます。その長州に対し、連合国は「懲罰攻撃すべきだ」ということで、イギリス・フランス・オランダ・アメリカの4ヶ国連合艦隊で長州を威圧します。
このような状況のなか、長州藩は投獄されていた高杉晋作を呼び、講和の全権大使にします。
長州は晋作の身分では講和使節の使者としては不都合、ということで家老の養子『宍戸刑部』という架空の人物を名乗らせます。
そして、通訳として晋作の永遠の子分でイギリス留学経験のある伊藤博文を引き連れてイギリス戦艦に乗り込みます。
この時がまたすごい。謝るべきところを一歩も譲らず、しかもその主張がふるっています。
イギリスは、「300万ドル(長州が50年かかっても払えない額)を要求します」
この時高杉晋作は、「攘夷を命じたのは朝廷と幕府だ。打ち手は幕府だ。長州は幕府に頼まれたから、やっただけだ。鉄砲玉にすぎん!」と幕府の命令書を出し、論理的に攻めます。
結局、イギリスが折れて幕府に支払わせることで合意。しかし、イギリスが今度は彦島という島を抵当に出せと迫ります。
この時の高杉がまたすごい。実際に対応に当たったイギリスの大使がのちに、
「高杉は轟然として、まるで魔王のようだった」と書き残しています。
高杉は彦島の租借を迫るイギリスに、延々と古事記を朗読して煙に巻きます。疲れ果てたイギリスは
「もういいよ」とさじを投げ、彦島租借はうやむやで終わります。
3.辞世の句「おもしろきこともなき世をおもしろく」
以前より、肺結核に侵されていた高杉晋作の病状は、第二次長州征伐での小倉口の戦いのころには、自ら立つこともできなかった状況でした。無理をして陣頭指揮をとろうとする高杉晋作に対し、長州藩は療養するよう命じます。
高杉晋作は、藩命に従って、下関で療養生活に入りましたが、時すでに遅しでした。
下関市桜山で療養中の慶応3年4月14日(1867年5月17日)に死去、享年27。臨終には父・母・妻と息子がかけつけ、野村望東尼(のむら もとに)・山県狂介・田中顕助が立ち会ったとされています。
そしてこの時読まれた辞世の句が、あの有名な辞世の句「おもしろき、こともなき世を、おもしろく」ですが、実はこの句には下の句があります。
下の句は「住みなすものは、心なりけり」と続きます。そのようにする(面白くするのもしないのも)のもしないのも、心持ち一つだという意味です。
この下の句は、臨終に立ち会った野村望東尼が書いたと言われています。下の句を告げる力もなかった、高杉の上の句に対し、下の句を付け加えたと言われています。
野村望東尼とは、幕末の女流歌人・勤王家、福岡藩士です。

戦いに散った仲間のために、「招魂場」を設ける
生前、高杉は戦いに散った同志たちのために、桜山に招魂場を設けました。(招魂とは亡くなって肉体から離れた魂を呼び戻して弔うこと)
そして、その桜山で自らの生涯を閉じます。招魂碑は全部で396。高杉はここに同志を弔う時、漢詩を捧げました。
「猛烈の騎兵、何の志すところぞ。一死をもって邦家(国家)に報いんと要す。よろこぶべし、名遂げ巧成るののち、ともに招魂場上の花とならん。
高杉の死はこの詩を読んでから2年後です。
吉田松陰は死ぬ1年前、弟子たちに言葉を残しました。
「志を立てるためには、人と異なることを恐れてはならない。世俗の意見に惑わされてもいけない。死んだ後の業苦を思いわずらうな。目前の安楽は一時しのぎと知れ。百年の時は一瞬にすぎない。君たちはどうかいたずらに時を過ごすことのないように」
その弟子である高杉晋作は吉田松陰の言葉を実践して、亡くなったのです。