エールで描かれた「インパール作戦」とは何か、わかりやすく話します

歴史

NHKの朝ドラ「エール」が人気です。作曲家の古関裕而さんをモデルに、主演は窪田正孝(古山裕一役)さん、女房役に二階堂ふみさん、その他、森山直太郎、唐沢寿明、菊池桃子、薬師丸ひろ子、山崎育三郎と多士済々です。

NHK連続テレビ小説『エール』
心に届け 君への応援歌(エール)! 昭和という激動の時代に、人々の心に寄り添う曲の数々を生み出した作曲家・古山裕一とその妻・関内 音の物語です。

そんなエールで今日描かれたのはインパール作戦。この作戦によって、古山裕一の恩師である森山直太郎(藤堂清晴役)が亡くなります。

ネットではこのインパール作戦で戦死する描写が生々しかったため、結構な話題になっていました。そこで今日はこのインパール作戦を紐解いてみたいと思います。

(福島民報:昭和19年5月10日の記事)

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インパール作戦とは史上最悪の作戦

日本が第二次世界大戦中、数多くの愚かな作戦(例えばガダルカナル作戦、ミッドウェー作戦、レイテ海戦等)を実行し敗北しますが、その中でもこのインパール作戦は戦後の評価でも史上最大の愚策、史上最悪の作戦と言われています。

なぜ、そう言われているのか。結果から見るとこの作戦は目的を遂行できず失敗、そしてその代価は莫大な犠牲として支払われました。

作戦参加人数10万人のうち、戦死者3万人、戦傷者2万人、残存兵力5万のうち半数が病人であったこと。そして何よりもそもそもこの作戦自体が、限りなく杜撰だったということです。

作戦遂行者は牟田口廉也中将第15軍司令官、その上司は河辺正三中将ビルマ方面軍司令官。

(画像出典;日刊ゲンダイ) 

牟田口 廉也(むたぐち れんや、1888年〈明治21年〉10月7日 – 1966年〈昭和41年〉8月2日)は、日本の陸軍軍人。陸士22期・陸大29期。最終階級は陸軍中将。盧溝橋事件や、太平洋戦争(大東亜戦争)開戦時のマレー作戦や同戦争中のインパール作戦において部隊を指揮した。

牟田口廉也 - Wikipedia

インパール作戦の概要

インド北東部アッサム地方に位置し、ビルマから近いインパールは、インドに駐留するイギリス軍の主要拠点であり、さらに、ビルマ-インド間の要衝にあって、他の連合国から日本と戦っていた中華民国(国民党軍)への主要な補給路(援蔣ルート)でした。よって、ここを攻略すれば中国軍(国民党軍)を著しく弱体化できると考えられていました。

当初、このインドを侵攻する案に対して牟田口中将は反対していましたが、ビルマを守っていた日本軍がイギリス軍のコマンドー部隊(ウィンゲート旅団)により北ビルマへの反攻を受けると、それまでインドの侵攻に反対だった牟田口は一転してインドへの侵攻を唱え始めます。

牟田口中将の考えはビルマの防衛を遥かに超えて、インドを侵攻し、守備するよりも攻勢に出ることによってむしろビルマを防衛しやすくなるとの判断からでした。

(出典:「失敗の本質」)

上図でいうと、ビルマからインパールを超えてインドへ侵攻し、インドもとるという作戦を牟田口は主張しました。

杜撰な作戦

なぜ、インパール作戦が杜撰な作戦だと言われるのか。いくつかありますが、その大きなものは兵站を考えていたいことでした。兵站とはロジスティック、つまり補給路です。兵は兵器や弾薬、そして何より人間ですから食べなければ飢えてしまい、戦争どころではありません

なんと牟田口はこの補給のことを全く考えてはいませんでした。前述しましたが、総兵員数は10万人です。10万人の人数がいれば、食料はとんでもない量になります。

例えば、当時1兵士の食糧は米だけでも1日600gです。これを10万人の兵士に供給するには、1日米俵1,000俵が必要です。

なぜ、牟田口中将は兵站を考えなかったかというと、考えられなかったからです。ビルマの道は舗装などされていません。道も険しい山や川。しかも雨季になれば道はぬかるみ牛でさえ通れない道ばかりです。

前線から補給を催促する連絡に対し、牟田口中将は

・牟田口中将の第15軍司令部は「これから送るから進撃せよ」「糧は敵に求めよ」と電文を返していたとされる。

・第33師団は、軍の補給が遅れているから前進出来んというのか。インパールに突入すれば、食糧なんかどうにでもなる。前進の遅れた責任を軍に転嫁するのはもっての外だ。

と答えていたのです。

司令官は牟田口中将を黙認。兵棋演習も無視。

牟田口中将は軍司令官会合でもインパール攻略・アッサム侵攻を力説した。河辺ビルマ方面軍司令官もこれに同調して、インパール攻略とアラカン山系への防衛線前進を主張しましたが、牟田口中将と異なってアッサム侵攻は無謀と見ていたのです。

ビルマ方面軍司令部で行われた兵棋演習では、ミンタミ山系への限定前進でも結局はイギリス軍との全面会戦になると予想され、より積極的なインパール攻略のほうが有利との判定が下りました。

兵棋演習とは図上演習とも呼ばれるもので、いわゆる戦争のシミュレーションです。通常このシミュレーションでの結果が悪い場合は作戦の変更をするか、または中止するかのいずれかの措置が取られますが、牟田口中将はこれを無視します”

兵站の点を問題視した、竹田宮恒徳王大本営参謀は無茶苦茶な案だと酷評し、中永太郎ビルマ方面軍参謀長や稲田総参謀副長らは、補給困難を理由に修正案を提示しました。

竹田大本営参謀や中永方面軍参謀長や稲田総参謀副長はまだ、牟田口中将の外にいた人物だったのですが、なんと同じ15軍の参謀である小幡参謀長以下の幕僚からも無謀だとして反対意見が出ます。

つまり、15軍の上部である方面軍の参謀だけでなく、直属の部下(小幡参謀長)からも反対意見が出ていたのです。

しかし河辺司令官は、牟田口中将の心情を理解していると意味不明なことを言い、これらの案をうやむやにします。

ちなみに15軍に関連する軍の構成は以下のとおり。15軍の司令官が牟田口中将、方面軍司令官が河辺中将。

(大本営) ビルマ方面軍(河辺司令官) 15軍(牟田口司令官) 師団 旅団 連隊 大隊 中隊 小隊 分隊

しかし河辺司令官は、牟田口中将の心情を理解していると意味不明なことを言い、これらの案をうやむやにし、反対を唱えた小幡参謀長は更迭されます。

(画像出典:wikipedia)

牟田口中将の個人的心情

実は牟田口中将は、過去にも過ちを犯しています。盧溝橋事件の当事者だったのです。

盧溝橋事件は、きっかけは些細は小競り合いだったのですが、戦線が拡大しついには支那事変、そして日中戦争にまで発展しました。

牟田口中将は当時連隊長としてこの戦線拡大のきっかけを作ってしまったのです。

私は盧溝橋事件のきっかけを作ったが、事件は拡大して支那事変となり、ついには大東亜戦争まで発展してしまった。もし今後自分の力によってインドに進攻し、大東亜戦争遂行に決定的な影響を与えることができれば、今次大戦勃発の遠因を作った私としては、国家に対して申し訳がたつであろう。(失敗の本質)

戦いにはこういった個人的心情は害悪でしかなく、このような考えがある限り合理的な作戦は立てられず、合理的な判断もできません。

結果として、牟田口中将は確かに「大東亜戦争遂行に決定的な影響」を与えたが、国家に対して申し訳は立たなかったと言えます。

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インパール作戦のまとめ

インパール作戦は昭和19年3月に開始され前述したように惨憺たる失敗に終わり、四ヶ月でやっと作戦が中止になりました。そして作戦目的は達成されなかったばかりか、ビルマの防衛自体も瓦解してしまいました。

戦略的な合理性を全く欠いたこの作戦は、河辺、牟田口というセンチメントな感情、情緒主義、個人の特性を許容してしまうシステムに押し流されて実行され、多くの人の命が奪われました。

残念なことに、なぜか第二次大戦の日本軍の戦いにはこの手の戦いが多くあります。

(アイキャッチ画像:NHK)