明智光秀の子孫、細川ガラシャという女性/麒麟がくる

今NHKの大河ドラマ「麒麟が来る」の主人公の明智光秀。

今日はその明智光秀ではなく、その子どもである細川ガラシャとガラシャの子孫についてお話ししたいと思います。

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明智光秀

明智光秀を有名にしたのは「金ヶ崎の退き口」(かねがさきののきくち)と呼ばれる撤退戦です。1570年(元亀元年)浅井朝倉軍と一戦を交えた織田信長でしたが、前にいる朝倉軍と後ろにいる浅井軍に挟撃され、進退極まった織田軍は撤退、敗走します。

敗走すれば追っては勢いこんで攻めてきます。この時一番大事なのはいわゆる殿(しんがり)と呼ばれる最後尾で逃げる本体軍を支え、犠牲になって攻め手を抑える部隊です。

この殿を務めたのが明智光秀です。明智光秀は朝倉軍による追撃を守備よく食い止め、信長軍の被害を最小限に抑えることに成功し、この働きを織田信長から評価され、宇佐山城をもらいました。

もう一つは、比叡山延暦寺の焼き討ちです。当時延暦寺の僧たちは武家以上に武装して実際はほとんど武士同様。しかも、寄贈される金を勝手次第に使い、女人禁制どころか女性と常時戯れる毎夜の酒池肉林。

この延暦寺攻略に、明智光秀は比叡山延暦寺焼き討ち(元亀2年9月12日(1571年9月30日))で実行部隊の中心として活躍しました。結果、その功績を認められ、近江50,000石を与えられて坂本城を与えられ、信長の正式家臣になったと言われています。

しかし、比叡山焼き討ちで信長は僧侶、学僧、上人から女子供、児童に至るまでその首をことごとく刎ねるよう光秀や秀吉に命じます。

信心深い光秀は、泣きながら斬ったと言われており、のちの本能寺の変においてもこの遺恨があったのではないかとも言われていますこの時、要領の良い秀吉は一部僧侶や子供を逃したとも言われています。

そして一躍その名を馳せたのが、なんと言っても本能寺の変。天正10年6月2日(1582年6月21日)早朝、京都本能寺に滞在中の織田信長を光秀謀反を起こして襲撃した事件です。

この時光秀66歳、老いてなお天下を狙ったのか、信長への遺恨だったのか、はたまた両方だったのかは定かではありません。

信長は寝込みを襲われ、抗戦しますが、まもなく火を放って自刃。同時に、織田家の嫡男である信忠も死亡します。

その後、光秀は本能寺の変を知り急遽、毛利氏と和睦して中国地方から引き返してきた羽柴秀吉の軍を、天王山の麓の山崎で新政権を整える間もなく迎え撃ったが破れます。俗にいう三日天下です。

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細川忠興と細川ガラシャ(珠子)

永禄6年(1563年)、越前国で、明智光秀と妻・煕子の間に三女として産まれます。この時の名前は珠子(たまこ)。

そして15歳のとき、織田信長の発案により細川藤孝の嫡男・忠興に嫁ぎます。当時信長の構想で家臣間の婚姻を統制しており、要は政略結婚です。ちなみに二人は同じ年齢だと言われています。

すでにことのき、珠子は絶世の美女との噂が広がっていました。

しかし、結婚生活は必ずしも幸福ではありませんでした。何よりも夫である細川忠興の珠子に対する変質的な愛情です。

ある日、庭師が珠子を見かけ、外から珠子に向かって声をかけます。声をかけたと言っても挨拶程度、こんにちは、程度だったと言われています。

ところが、庭師の声の目に激昂した忠興はその場で庭師の首を切り捨てます。さらに、その刀の血のりを珠子の服で拭き取りました。珠子は何も言わずその場を立ち去りましたが、その血のりのついた着物を何日も着ていたとのことです。

それを見た忠興が「蛇の様な女だ」と言うと、珠子は「鬼の女房には、蛇がお似合いでしょう」と答えたと言われています。日頃から変質的な珠子への愛に対するささやかな抵抗だったのかもしれしれません。

その後、珠子の父光秀の謀反、本能寺の変が起きると運命は一転します。

珠子は「謀叛人の娘」となり、秀吉からの追及をおそれた忠興により、天正12年(1584年)まで2年間、丹後国の三戸野(現在の京都府京丹後市弥栄町)に幽閉されます。

当時、離婚となると妻は里方に帰されるのが普通だったのですが、それをしなかったのは、忠興の珠への愛情が断ち切れなかったからではないかとの指摘がある。幽閉時に二人の子を出産しているのもその証とも言われています。

その後、細川家の屋敷に戻ることができましたが、夫・忠興との間には溝ができます。幽閉の間、ガラシャを支えたのは、結婚する時に付けられた小侍従や、細川家の親戚筋にあたる清原家の清原マリアらの侍女達でした。

この時に珠子はキリスト教の教えに触れたと言われています。そして、洗礼を受けてガラシャという洗礼名を名乗ります。

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関ヶ原の戦い

その後、天下人・秀吉が亡くなるとガラシャに危機が訪れます。

バテレン追放令が発布されていたこともあり、忠興は受洗を激怒しキリスト教を棄てるよう説得しますが、ガラシャは頑としてきかず、とうとう忠興は黙認します。

忠興はガラシャへの当てつけか、「5人の側室を持つ」と言い出し、ガラシャに対して辛く当たるようになります。ガラシャは「夫と別れたい」と宣教師に告白しますが、キリスト教では離婚は認められていません。

そして、ガラシャにとって最大の事件、「関ヶ原の戦い」が起こります。

慶長5年(1600年)7月16日(8月24日)、忠興は徳川家康がわにつき、上杉征伐に出陣します。忠興は屋敷を離れる際は「もし自分の不在の折、妻の名誉に危険が生じたならば、日本の習慣に従って、まず妻を殺し、全員切腹して、わが妻とともに死ぬように」と屋敷を守る家臣たちに命じていました。

もちろん、武人としては当然の措置だったのですが、忠興はガラシャを他の武家に盗られる、ましてや妾にされることが死ぬよりも苦痛であったのだと思います。

例えば、同じく絶世の美女、浅井三姉妹と言われた信長の妹「お市の方」と長女の「茶々」。お市の夫である柴田勝家が秀吉に滅ぼされると自身も自刃します。その後茶々は秀吉の側室にされてしまいます。

(お市の方)

(茶々)

余談ですが、この当時絶世の美女と言われた「京極竜子」という人がいます。父は京極高吉、夫は明智側についた武田元明ですが、元明は光秀の味方に就き、丹羽長秀・羽柴秀吉の連合軍に討たれてしまいます。

すると竜子は捕らえられ、秀吉の側室にされてしまうのです。

そういう意味では忠興は秀吉の好色、美人好きを知っていたのかもしれません。

(京極竜子)

そして、忠興の読みどおり、西軍の石田三成はガラシャを人質にすることにより、忠興を西軍側に付けようとし、ガラシャのいる細川屋敷を取り囲みます。

ガラシャは少し祈った後、屋敷内の侍女・婦人を全員集め「自分だけが死ぬ」と言い、彼女たちを外へ出します。

自殺はキリスト教で禁じられているため、家老の小笠原秀清にガラシャを介錯させ、遺体が残らぬように屋敷に火を放つよう指示します。実質、自刃です。

ガラシャが詠んだ辞世の句「散りぬべき 時知りてこそ 世の中の 花も花なれ 人も人なれ 」は有名で、惜しまれながら小泉純一郎氏が総理を辞する時、この句を読みました。

戦国の世の女性は、時代に流され、そして男に流されると言います。ガラシャも同様でした。

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