「この間の遺恨、覚えたるか」
元禄14年3月14日江戸城殿中松の大廊下で、播磨赤穂藩の藩主である浅野内匠頭(あさのたくみのかみ)が吉良上野介(きらこうずけのすけ)に刃傷におよんだ場面で始まる「忠臣蔵」。刃傷におよんだ理由はさまざまあるが、少なくともこの刃傷におよんだ行動が突発的であったとことは確実である。最初から切り殺すつもりであるならば、殿中でやる必要はなかったし、殿中だったとしても短刀で仕留めるならば切らずに突くのが常道であるからだ。
そして、この浅野内匠頭の衝動的で無計画な行動は、その後「多くの悲惨」を生んだ。
1. 浅野内匠頭本人の悲惨
当の浅野内匠頭は、「即日切腹」となった。しかも、大名の切腹は座敷などで行われるが、慣例を破って庭先で切腹を命ぜられた。
2. 吉良上野介と家臣の悲惨
刃傷事件から1年8ヶ月後の元禄15年12月14日、赤穂浪士は吉良家に討ち入り、吉良上野介は殺される。討ち入りの際、赤穂浪士と戦った吉良家家臣15人が命を落とす。
3. 赤穂浪士の悲惨
赤穂藩士300数十人のうち、大石内蔵助に切腹の神文を提出した者は約60人。さらにそこから10数名が脱盟し、討ち入りに参加した者は47名だった。(寺坂吉右衛門を除く46名の説もあり)。討ち入りから3ヶ月間待たされた結果、元禄16年2月4日、全員が切腹させられる。
4. 赤穂浪士の家族、遺児たちの悲惨
妻と女子及び僧籍にある男子は免除されたが、連座制により赤穂浪士の遺児19人のうち15歳以上の男子4人が伊豆大島へ流刑の罪となった。
5. 打ち入らなかった赤穂藩士の悲惨
赤穂浪士が「武士の名誉」を守ったヒーローと持ち上げられる中、討ち入りしなかった者は悲惨だった。多くは世間から卑怯者の謗(そし)りを受け、赤穂藩士だった過去を隠す者、改名する者、さらには父親が恥と思い切腹するケースもあった。赤穂城明け渡しの翌日に逐電した次席家老の大野九郎兵衛は、不忠臣の典型とし後世に名を残し、萱野三平は父からの仕官の推薦と大石へ神文を提出したことの板挟みに悩み、討ち入りに参加してもしなくとも不義理にあたると考え、討ち入り前に自害した。
6. 吉良家の悲惨
また、吉良家も悲惨だった。吉良家の跡取りである義周(よしちか)は打ち入られた日、自ら武器をとって応戦したが背中を斬られてそのまま気絶した。その後、赤穂浪士の処分が決まった日に幕府の評定所に呼び出され、討入り当日の際の「武道不覚悟」を問われ、家名断絶、領地没収を言い渡され、諏訪藩にお預けとなる。元禄16年2月11日義周は罪人として諏訪藩士130名に護送されて江戸を立つが、随行はたったの2人、荷物は長持3棹とつづら1個だけだった。
刃傷に及んだ時、浅野内匠頭がさしていた刀は礼式用の小さ刀(ちいさがたな)。歴史にifは禁物だが、浅野内匠頭の礼式用の小刀ではなく、脇差だったら。また、小さ刀がもう3センチ長かったら、脳をやられて絶命した坂本龍馬のように、吉良上野介の刀傷は脳に達し致命傷になっていたかもしれない。そうなれば、(浅野内匠頭本人を除く)その後のすべての悲惨は起こらなかった。